March 2009
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実は日本で「写真」という言葉が使われたのは、今から230年前(ダゲレオタイプが発明される75年前)、中国では1250年前からなのだが・・・・・・・...
– (via reretlet) (via ak47)
February 2009
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用語
幾ら、難しい哲学用語使うにしても表現の全体的な共通項としては「いかに相手の意識に踏み込めるか」ってことだと思う。
自分の作品を「分かる人だけ分かればいい」 それは独りよがりでしかない。
表現者って・・・・「難しい専門用語で理論武装する、表現者の特権」なのか?勿論、色々な知識を吸収する・・・・そういったアンテナは顕著かも知れない。
でも・・・・作品は見せてなんぼだろ。
専門用語で作品を理論武装する作家ほど「ふざけんな、てめえ!!」って思うものは無い。以上、これも酔っ払いの独り言として・・・・・
表現を伝える
表現について、自分の認識とかで哲学用語とか持ち出す場合がある。
でも、やっぱり「作品」は「見てくれてなんぼ、自分の手元に持ち続けたいでなんぼ」なんだと思う。
自分の作品の想いと見る側のイメージの相違は普通なんだ。自分が「こういった想いで作りました」と言っても、相手が「こう想った」と言えばそれは作品についての正しい認識だし、「こういった感じで作ったんだよ」と自分が伝えたところで微妙な価値観が残るのは否めない。
つまりは・・・・・「作品を見せる」って作者と見る側との戦いなのか?作品には色んな想いがあっていい。
「作品を賢くさせる」こそ、表現の制約ともなる枷とも思うんだが・・・・・・・
以上、これは酔っぱらいの戯言ということで・・・・・(反論があって当然だと思ってます)
まあ、幾ら難しい言葉並べてもやっぱり見るのは相手側なんだと思う。
美しいということ
美しいということ。これほど曖昧で明確に言葉に表そうとするのが難しいものではないかと思う。勿論、「美しい」に限らずある意味、人間の本能的な部分に触れる物であれば訴えることが容易ではないし、「美しいの答え」が多岐に渉るのも当然至極。
「綺麗な風景の画像」 それは数多の人が撮り続けてるし、自分はそれを否定する権利も無い。と言うか、「美しさを訴える」という点で、自分には逆に敵わないと認識させてしまう。
自分の写真の多くは「出会ったら誰にでも撮れる」。そんな写真ばっかりかもしれない。
でも・・・・・・・「表現とはいかに自分が気付くか。いかに見てもらいたい物に出会い、対面するものを自分の心を共有できるか」と思える。
自分はまだまだかも知れない。見せる側の意見かも知れない。
...
January 2009
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ネーミングに惚れた
http://bb.watch.impress.co.jp/cda/news/24510.html
August 2007
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gabumomi_room